Sunday, September 14, 2008
ラオス 雑感
10,29(土)くもり
朝九時にバスターミナル集合。町の中心からは離れていてホテルからはバイタクでふたりで一万k。バスは十時半出発の60000kだったが、故障で遅れており、十一時半出発という。他に80000kのツーリスト用ミニバスもあるが、白人旅行者がギュウギュウ詰めに乗っていてやめる。ひたすら本を読んで出発時間を待つ。
ルアンパバン、ビエンチャン間の国道13号線は、以前山賊が出没して欧米人ツーリストが殺害されたこともある。特にバンビエン手前のカーシー付近が危険地帯らしい。バスにはカラシニコフを担いだ私服の軍人がガードマンとして乗り込む。ちょっとだけ物々しいが、乗客の雰囲気は普通である。最近では2003年に欧米人ツーリストが殺されたらしい。最近はそういう事件は起こっていないものと思っていたのだが、あとからビエンチャンのMさんに聞いたところによると、三ヶ月前に地元民が殺傷される事件が起こったばかりだという。この山賊は反政府勢力で、ということは反社会主義勢力らしく、フランスや米国あたりから援助を受けているのではないかというMさんの話だった。
道路はおおむね舗装されているが、ひどくカーブが連続するので、車酔いでげろを吐く乗客が続出。出発前に珍しくビニール袋を配っていた理由がわかった。しかしそのぶんけ景色は抜群によくて、特に左手に広がる奇岩峰が連なる荒々しい風景は、行ったことないけど桂林とかに近い感じで、なかなかの景勝地だった。
六時間ほどでバンビエン到着。
確かにツーリストが多い町である。英語とイスラエル語の看板が折り重なるように続いている。大音量で映画を流しているのもガイドブックの情報通り。数十人の白人たちが「ミスタービーン」とかを寝ころんで観ながらゲラゲラ笑っている。満席である。村人よりも欧米人の方が多いのではないかというくらいの異様な町だ。そしてやたらにピザ屋が多い。「ヨーロピアンブレックファースト」と大書きした看板が目立つ。それと「ハッピーピザ」「ハッピーシェイク」の看板がやたらに多い。これはつまり大麻の葉が入ったピザやシェイクのことである。ここまでおおっぴらにやっているのは他に見たことがない。
旅行人に書いてあった「ポンカムゲストハウス」に投宿。しかしこのガイドブックの衛生観念は信じられない。「部屋は清潔」とか「トイレはきれい」とか書いてあっても、それが清潔であった試しがない。ここの宿も(「第3版1刷」だが)「清潔で居心地がいい」と確かに書いてあったが、我々にとってはとてもきれいとは言えない。ベッドと壁の隙間にはよくわからないゴミがいっぱい捨ててあってクモの巣がかかっているし、トイレの排水溝は汚いし、洗面台の排水はボタボタと漏る。よかったのはホットシャワーの湯量がすばらしかったことと、ベッドがわりに清潔であったことだけである。でも一泊三ドルは確かに安い。もう少し高くてもいいから部屋のメンテナンスをしっかりやってくれ、という宿は今まで無数にあったが、ここもそのひとつである。
10,30(日)雨のちくもりのち晴れ
九時半起床。久しぶりにたっぷり寝たので目覚めがよい。たまりにたまった日記を朝から片づける。そしてようやく追いついた。
本日ようやく両替。
10000円=920000k
フェイサイの時より若干円安である。最近は1ドル=115円まで下がったという話。なんだか我々が旅行するときはいつも円安傾向な気がするのは気のせいだろうか。
バンビエンは本当になにもないが、ゲストハウスだけはたくさんある。川沿いに行ってみたらたくさん並んでいた。町をぐるりと一周しても三十分くらいだろう。ナムソン川は確かにきれい。欧米人がタイヤのチューブで流れていく。ボートツアーもあるらしい。川向こうにそびえる岩峰が美しい。しかしルアンパバンに比べると若干湿気が高く、蒸し暑い感じがする。
この街はイスラエル人がたまり始めたのが始まりだそうだ。カオサンもそうらしいから、彼らのリサーチ能力と情報網はスゴイ。そしてケチ。日本でも彼らは自前のネットワークを生かして渋谷なんかの路上でアクセサリーを売る仕事にありつき、しっかり金を稼いで旅行を続ける(あれはヤクザが噛んでいて、彼らに仕事を斡旋してピンハネしているらしい。その昔にバンコクで会ったイスラエル人が「ヤクザ、コワイ」と言っていた)。したたかである。その結束ぶりで二千年の長きに渡って流亡しながらも生きながらえてきたわけだ。年季が違うのだ。
それにしても田舎町に忽然と現れるこの喧噪はなんだろう。この違和感。人口一万六千人の田舎町に数百人の外国人が集中するという異常さ。大音響で深夜まで映画を流すレストランが軒を並べ、やる気のなさそうな若い欧米人が寝転がってそれを見ている。その間を忙しそうに立ち働くラオス人の給士。パクベンと同じように、突然降ってわいたような外国人たちの襲来に、地元の人々はどう対応しているのか。目端の利く人はゲストハウスやレストランで成功するだろう。昔と変わらない農業を続けている人もいるに違いない。彼らはほんの数年前までほんの百数十ドルの年収で生活していた人々だった。それが突然ドルをばらまく外国人が大量に訪れて金銭感覚がおかしくなり、所得の格差がどんどん広がる。バンビエンを歩いているとトヨタの高級ピックアップをいくつも見かける。大金を手に入れた人たちは確かにいるのだ。
ビエンチャンのMさんに電話してみる。GダイのT氏からすでに連絡が行っていたらしく、快く会ってくれそうだ。明日また電話することに。その前に質問事項を整理しておかなければ。
夕食は近くの地元民が集まるモツ焼き屋。生野菜やそうめんと一緒に巻いて食べる。久々に常温ビールと氷が出てきて、ローカルな気分を味わう。二軒目はイスラエル人のピザ屋。これもなかなかうまい。
10,31(月)くもり
十二時にバスターミナルに行くと、いつも通り阪口夫妻が待っている。この人たちは本当に時間に正確だ。
嫁は出発時から眩暈を訴える。貧血らしい。十二時半のバスは見送り、次の1時半に変更。バスターミナルは町外れの米軍の飛行場跡の先にあり、砂利敷きのだだっ広い滑走路を横断していく。そういえばチェンコンの道路も異常に広かったが、あれも有事の際の滑走路になるのだろう。ロバを連れて歩いていたときにもフエゴ島で同じようなのを見た。それは1キロ以上も続く直線道路で、道幅も相当広かった。あとで聞いてみると、どうやらフォークランド紛争当時の臨時滑走路だったらしい。どこの国でも国境が近くなるとこういう軍事施設が目立つようになる。
嫁は地元の人々の好奇の目をよそに、ベンチにごろりと横になって寝ていた。彼女のスカートは柄がラオスにないもののようで、どこに行っても地元の女の子の注目を集めていた。逆に顔立ちは「ラオス人に似ている」と何度か言われていたが。
バスは定刻通りに出発。前を走るバスが途中乗車の客を全部拾っていってくれるせいか、余計な停車をすることもなく、すこぶる順調に走る。数人の客以外ほとんど空席。一番後ろを陣取って広々と座る。行商のおじさんが乗ってくる。安物の腕時計をたくさん飾った篭をそのまま持ち込んでいる。一日にいったいいくつ売れるのだろうかと勝手に心配になった。途上国で圧倒的に目立つ商売というのはバイタクの運ちゃんと小売業、飲食業、そして売春である。いずれも元手がかからないし、販路の開拓も要らず、手軽だからだ。
この人も年収はたったの百数十ドルなのだろうか。家族は生活していけるのだろうか。
午後五時、ビエンチャン到着。バスターミナルからトウクトウクでSyri2ゲストハウスへ。ダブル、ファン、風呂トイレ共同で6ドル。部屋もトイレも清潔なのでここに決める。
七時にナムプーという町の中心の噴水で阪口夫妻、Mさんと待ち合わせ。近くのレストランで食事の後、お洒落なバーへ。
ラオスのお国事情についていろいろと興味深い話を聞く。
ビエンチャン市民の平均年収はおそよ800ドル。Mさんのアパートの家賃は年(月ではない!)750ドルとか。
我々が訪ねた村が平均年収150ドルだと言うと、それでもまだいい方だという。トレッキング客が訪れる村はまだまだ裕福な方なのだ。Mさんの指摘は考えてみれば当然なことなのだった。我々が訪れた村など所詮はラオス最大の観光地ルアンパバン周辺の比較的恵まれた村なのであり、地方に行けばもっと山奥の、もっと辺鄙な、そしてもっと極貧な生活をする人々が大勢いて、しかもそれは、人口の8割が農村部に住むと言われるラオスの大多数の農村の現実でもあるのだ。
「でもみんなそれなりに楽しくやってますよ。ラオス人は急激な発展は望んでいないと思いますしね」
Mさんのその言葉に私はなんだか救われたような気がした。そしてモン族の村人の言葉を私は改めて思い出した。
「我々は山に住むことが幸せなのだ。ルアンパバンに住むつもりはない」
彼らはラジオ放送を通して日本という非常に開発された国のことを知っていた。もちろんそれが世界有数の金持ち国で、そこで働けばほんの一ヶ月で年収に匹敵する金が稼げることも知っているだろう。しかし彼らは我々に対して「日本に行きたいから保証人になってくれ」といった類のことはいっさい言わなかった。彼らにとって日本という国はあまりに遠い国だからなのかもしれない。しかしそれよりも「急激な発展は誰も望んでいない」というMさんの言葉の方が、私にはより大きな意味を持って響いたのだった。パクベンやバンビエンの地主のように降って沸いたような莫大な金を稼いで成り上がるよりも、急激な変化を望まず、現状の平和な生活を維持することを大切にする。「学校を作るのが夢だ」と村長が言っていた。その言葉が、彼らのそんな慎重な姿勢を物語っているように思えた。
もちろん私はバブルでにわか金持ちになることが悪いと言っているのではないのだ。彼らにもその権利とチャンスは当然あるのだから。しかしそれによって失われるものがいかに多いか、彼らは気付いていないと思うのだ。日本が高度成長で金持ちになり、その代償として何万人もの人々が公害で苦しみ、そしてようやく環境問題が重要な政策課題として取り上げられるようになった、その長い長い課程を彼らは知らないのだ。
11,01(火)晴れ
最近では珍しく寝坊して十時起床。昼間では日記を書いたり洗濯したりして過ごす。この日記を書いていて洗濯に触れることが非常に多いことに気が付く。前にも書いたように洗濯は一大仕事だからである。
Mさんからビアラオの工場見学OKの電話があり、午後二時から出かけることに。
ビアラオは想像以上に遠くて、市内からトウクトウクで三十分以上かかった。四ドル。
案内の女性が付いてくれて、瓶詰めと出荷工場を見せてくれるが、肝心の醸造工場は秘密とのこと。サントリーの工場よりも厳しい。この見学でわかったこと。
・ビアラオの資本の50%はカールスバーグが出資している。
・ビンは作れないので輸入している。これはパプアニューギニアが缶詰のカンを作る技術がないのでオーストラリアから輸入している構図と似ている。欧米企業のあざとい作戦である。
・製造工場はドイツの設備を輸入している。ホップとイーストもドイツから。モルトはフランスからの輸入。つまりラオスで用意しているのは米と水だけ。
・一日に大瓶12本入りケースで四万五千ケース出荷している。カンと小瓶は毎日は製造していない。
・1973年創業。現在はラオスのビールシェアの99%を占める。
などなど。
・肝心な部分を抜かした見学が終了の後、ビールの試飲。日本からのツアー客が先にいて、ワイワイとビールを飲んでいた。さすがにできたてのドラフトビールは市販のよりもアメ臭さや苦みが少なくまろやかでうまかった。場所は講演室というか会議室のようなところで、歴代のビアラオのビンが並んでいる。「すでに製造していないラベルです」のシールが貼ってある。初代のビールは「33」と「BIERE LARUE」という銘柄で、明らかにベトナムの「333」「BIERE LARUE(開高健の本に出てくる)」を模している。ラオスは独立当時から現在まで一貫してベトナム追従政策だというから、ビールのラベルも真似たのだろうというMさんの見解。
「昔のビアラオを飲むと涙が出たという話ですよ。きっとメチルが入っていたんでしょうね。もしかしたらこのビールかもしれませんね」
ところで見学にはMさんの奥さんも同行していた。
結婚していたんですね。と我々は意外。お名前はラッタナー・ウドムリットさん。ラッタナーは宝石の一種で、ウドムは「豊かな」、リットには特に意味がないらしい。ラオスでは(たぶんタイも)サンスクリットや仏教用語に由来する名前が多いそうだ。ルアンパバン郊外の出身。
見学の後、今日から開催されるというハンディクラフトフェスティバルに行ってみる。日本でいう幕張メッセのような会場で、ひたすら開催責任者と政府高官の挨拶が延々と続き、二時間近く待たされる。「世界一つまらないテレビ番組」と言われるミャンマーのニュースのようだった。つまんないので隣にあったビエンチャンには珍しいスーパーマーケットを見物。広いわりに品物も客も少なく二重に閑散としている。商品もずらーっと並んでいるわりには種類は少ない。一昔前の共産主義国家のデパートのようである。ここでラオスワインとラオス語で書かれたカールスバーグなどを購入。そういえばカールスバーグは現地生産しているのかどうか聞くのを忘れてしまったなあ。
六時過ぎてようやく開会。火曜日のしかも夕方の六時から開会である。なんでそんな日時を選ぶのか理解に苦しむ。
ラオスシルク100%、手織りのスカーフなどが販売されており、そういうのに疎い私から見ても相当美しい。思わず母親への土産のスカーフを購入。45ドル。
七時に阪口夫妻と待ち合わせをしていたので、急いで市内へ戻る。バイタクのにいちゃんは三時間も待ったんだからもっと金をくれということで、1ドル多く払って7ドル。
夕食はMさん夫妻と一緒に、六人で飲茶店へ。
ラオスに来てからMさんが食べたものの中で一番すごかったのはネズミの胎児の揚げたものだったという。それからクモの揚げたもの。鳥肌が立つ。いずれも揚げてしまうと味はなんだかわからなくなるが、クモの方はモソモソとしており、イモのような触感だったとか。ぞわー。
Mさんによるとラオスの人口比率は、約半数がラオ族で、残りを政府発表では48種と言われる少数民族が占める。その中でも特に多いのがカム族とモン族らしい。移住した年代順で言うと、もともとカム族が住んでいて、八世紀くらいからラオ族が南下。最後に200年ほど前からモン族が南下してきた。モン族が移住して来た頃にはすでに肥沃な地域はカム族やラオ族が先住しており、彼らは山間部に住まざるをえなかった。だからモン族の村は貧困なのだという。モン族はモンゴル帝国の末裔で、モン族の「モン」は「モンゴル」に由来するという。旅行人ノートによると、ベトナム戦争時に米軍は剽悍なモン族をゲリラ兵として雇い、ベトコンと戦わせたそうだ。米軍撤退後、モン族はベトナムに追従するラオス政府に冷遇される。貧困はさらに深刻なものとなったに違いない。
モン族は山に精通していて、市場で薬草を売っているのはたいがいモン族なのだそうだ。モンゴルの血を引いていると言われて、私はゴビの広大な草原でお世話になった家族の日本人とそっくりな顔立ちと、やはり日本人に限りなく近いモン族の村人の顔立ちを思い描いた。いずれもほとんど完全な自給自足で、地球を汚さず、世界中の誰にも迷惑をかけずに立派に自活している人々である。「木とつき合う智慧(地湧社)」に引用されていたとある研究によると、アメリカ人ひとりが一年間に消費するエネルギーは中国人の数百倍に達するという。モンゴルの草原を食む羊を食料とし牛の糞を燃料とするモンゴル人や、人糞でブタを養うモン族と比較したら、その差はいったい何千倍になるのだろうかと考えてしまった。地球を壊し続けるアメリカという国。しかしモンゴルの人々もモン族の村人もその生活に憧れている。
「清貧」なんていう言葉は、贅沢を尽くした人間が吐くスノッブな言葉に過ぎないのだと思う。
11,02(水)晴れ
ノンカイ行きのバスは十時半に出る予定だったが、もう少しゆっくりしたいのでバイタクで行くことにした。九時に起きて本屋とカオチー(バインミー)を買いに出かける。二年前の七月に訪れたときはものすごく蒸し暑くて、しかも宿の部屋には窓がなく、バンコクよりも不快な印象が強かったビエンチャンだが、今回は非常に快適である。日中はさすがに暑いけれど、日没と同時にぐっと気温が下がる。特に早朝はすがすがしい。
本屋ではラオス語~英語辞書を見つける。発音で引くこともできる優れもので、買おうかどうか迷うが、18ドルは高いかなあとあきらめる。これからも頻繁に使うことはないだろうし。12ドルだったら買ったかもしれない。
阪口夫妻おすすめのカオチー屋で特大カオチーを購入。ひとつ14000k。あまりに大きすぎてタイ入国後の昼飯もこれになってしまった。
正午に阪口夫妻のホテルへ。トウクトウクは8ドルでボーダーへ行ってくれる。Mさんの話ではボーダーまで4人で六ドルということだったが、やはりそれはラオス語ができる上での話だったようで、目的地別の値段表が貼り付けてあった。本物なのか疑問だが、これが運ちゃんの言い値の根拠になっている。観光局らしい役所のハンコも押してある。なんだか胡散臭いが。
イミグレーション横の免税店で缶ビールなどを買って残ったキープを使い果たしてから出国。出国手続きを終えてから、タイ国境に向かうバスを待つ。
イミグレの建物脇に出前の食べ残しの皿が捨て置かれてあって、それにアリの行列ができている。洗って返すという考えはないのかなあ。
ある調査結果では、バンコク市民のほとんどが慢性的な細菌性の下痢か軟便状態なのだという。あの不潔な街を見ればそれも当然といえば当然だろう。野良犬とネズミとゴキブリが這い回る道端で屋台で食事をする訳だから。根本的な原因はいろいろあるんだろうが、ひとつには、アリがたかっても自分の仕事ではないから関知しないという歪曲した自尊心が公益性を低下させ、ひいては国民全体の民度を下げているというのもあるのではないだろうか。
タイ側の国境もノーチェックで通過。トウクトウクの運ちゃんが待ちかまえていて、100Bでノンカイ市内へ。高いなあと思ったら立派なステーションワゴンに乗せてくれた。さすがタイ。ラオスに比べると生活レベルが一段高い。
ルアンタイゲストハウスは300B。ダブル、ファン、バス付き。水付き。バスタオルがちゃんと水を吸う。すばらしい。おばちゃんはとてもいい人で、汗だくの我々に氷を持ってきてくれた。嫁はその値段がかなり不満らしく、最初は機嫌が悪かったが、宿に落ち着くと清潔なベッドに倒れ込み、「いいわあ」と漏らす。
二時過ぎに到着して、私だけ両替に出かける。ノンカイは華僑の祭りに当たっており、どこの宿も混雑している。道々爆竹が鳴り、行列が練り歩いている。
レートはずいぶん悪くなって、1バーツ=2.9円にまで下がった。銀行内に市内の不動産物件が張り出されていて興味深い。けっこう立派な土地家屋がおよそ600万円。それは高い方で、300万円以下の物件もけっこうある。でもノンカイじゃなあ。来るまでが大変だ。バンコクからバスで十時間。それに外国人名義では購入することができない。タイ人名義だといつの間にか乗っ取られるに違いない。気がついたら知らない人に転売されていたとか。安い物件にはそれなりにリスクが伴うのだ。
宿に帰って昼寝。二時間ほどたっぷりと眠る。このところ一日中眠い。主に飲酒が原因と思われる。私の場合だが。
夕食はお祭り騒ぎの屋台街へ繰り出すが、車とバイク、人出のものすごさに圧倒。コンビニ近くの屋台に席を確保し、コンビニでビールを買ってきて適当な屋台で食べ物を買い込んでくる。タイの屋台ではその席を所有する屋台で何品か注文すれば、食べ物の持ち込みはわりと自由なのである。ひと通り食べてから宿に戻って飲み直す。ラオスワインやボーダーで買い込んだビールを消費する。けっこう遅くまで飲む。
11,03(木)
「ワープロ変換間違いコンテスト(正確なタイトルは忘れました)」みたいなのがあるそうだ。面白い変換間違いを募集するわけだが、大賞に決まったのが、
「貝が胃に住むことになりました」。
正しい変換は「海外に住むことになりました」。
で、私にもひとつある。たぶんタイに関することを書いた人ならきっと一度は見ているはずである。
「顔満開」。
正解は「カオマンカイ」である。
ノンカイからバンコク行きのバスは、カオマンカイでも買っていけばよかったなあというバスであった。バスはたくさん出ていて、それらはどうも民間のバス会社でけっこう競争があるらしい。阪口が昨日下見をしておいたバスではなくて隣のバス会社のチケットを買ってしまい、どんなバスが来るのか心配していたのだが、意外と立派なバスが入ってきて、客引きのおばちゃんが、
「どうよ。立派でしょ? あっちのバスなんてダメダメ」
というような身振りをする。その間におかゆで朝食を済ませて、バスは定刻通り九時に出発。たいがいの長距離バスは食事時間になると止まってくれるものだが、というか運転手が腹が減るので止めるのだろうが、今回は三時を過ぎても止まらない。
腹が減った。ものすごく腹が減った。非常食のビスケットは食い尽くしてしまった。おまけに二日酔いで、さらに下痢である。
どうなっているのだ。昨日食ったなにが原因なのかわからないが、4人中加奈子氏以外の三人が揃って水下痢である。
後にいろいろ考え合わせてみて、屋台で食べたサイクロクではないかという結論である。なぜかというと加奈子氏がひと口も食べていないからである。
誰が買ってきたのか。私である。申し訳ない。
でももう遅い。車の振動にあわせて、周期的に便意が襲ってくる。直腸の下限ギリギリまで下ってきた水下痢が行き場を失い、衝撃と同時に肛門から飛び出そうとする。それを強靱な括約筋の力でかろうじてかわしながら、私は努めて違うことを考えようとする。
久しぶりにバンコクに帰るなあ。ビエンチャンが涼しかったから、きっとバンコクも涼しくなっているに違いない。バンコクに着いたらなにを食おうか。やっぱり例のお気に入りの屋台でシンハを飲みながら生エビのカクテルでも食うかなあ。
生エビ→火を通していない食い物→食中毒→下痢
ああ。まずい。まずいぞ。頑張るんだ。ここが踏ん張りどころだ。ここで踏ん張らなかったらどこで踏ん張れっていうのだ。
そういえば下痢で恥ずかしい思いをした話はよく聞いたなあ。どうしても我慢できずにバスを止めて、みんなが見ている前で用を足したとか。でも乗客の反応は意外にも温かかったとか。やはりそういうことって誰にだってあるものなあ、気持ちはわかってくれるよなあ。ああ。やばい。また波が来た。試練の瞬間だ。
そうやって幾度かの波をかわし、空腹を抱えながら、ようやく昼食のためにバスが止まった。我々は他の乗客をかき分けてトイレに駆け込み、なんとか最悪の事態を免れた。
やはり移動日前日の食事には細心の注意をしないといけない。
バスは途中故障をして到着は大幅に遅れ、8時半にモーチットのバスターミナルに到着した。宿は選択肢が多いのと、翌日の旅行代理店回りを考えてカオサンにする。
ワットチャナソンクラム裏側の大型ゲストハウスををいくつかあたり、バーンサバイゲストハウスにする。バストイレ共同、窓なしの殺風景な「病室」だが清潔、という部屋で270B。やはり台北旅社の方が値段も安いし質も高いという結論。カオサンはよろしくない。
疲れたので食事だけして早々に寝る。
11,04(金)晴れ 夕立
部屋が暗いせいで十時過ぎに起きる。よく寝た。
カオマンカイとカオカームーをそれぞれ食べて、カオサン裏通りの旅行代理店を探した。実は以前から使っていた代理店がなくなってしまったのだが、そこは支店で、たぶん近くに本店があるのではないかと思っていたのだ。なぜかというと店の女の子が、わからないことがあると通りの向こうの方に姉を呼びに行ったりしていたからである。
やはりその推測は当たり、店から出てきた女の子とふと目が合うと、それは以前対応してくれていた女の子であった。彼女は最初はよくわからなかったようだが、突然、「ああ」と言って表情が緩んだ。あっちの店は閉めたのかと尋ねると、「そうだ」という。確かにあまりはやってはいなかったが。
そこの代理店は、前にインドネシアを回ったときの旅行で、帰国チケットを買うのに、この界隈の代理店をしらみつぶしにあたってみたところ、そこが一番安くて、それ以来贔屓にしていたのであった。店の奥からお姉さんが顔を出し、彼女は我々を見るとすぐに思い出して微笑んだ。
「二年ぶりですか?」
「一年ぶりですよ」
「そうですか」
「いやー、ははは」
それ以上話が続かないのが残念である。
インド、ネパール方面のチケットを調べてもらうと、カルカッタ行きはダッカ航空でおよそ6000B。およそ一万七千円である。対してカトマンズ行きはやはり割高でロイヤルネパール航空で8740B。およそ二万五千円である。もうひとつエアネパールインターナショナルという聞いたことのない航空会社で8350B。およそ二万四千円である。
カトマンズで楽しみにしていた、風の旅行社のネパール人スタッフの結婚式は十一月末になってしまったので、早めにカトマンズに入らなければならない。少々割高だがカトマンズ行きの便にする。先にビザを取得してから改めて来ますということで、この日はおいとまする。お茶まで出してくれた。年々好感度アップである。
ネパール大使館は午後四時半まで開いているということで、すぐにビザの申請をしに行くことにする。いったん宿に帰り、写真を持って出発。場所はスクンビットのはずれの方で、運河ボートでかなり行って空タクシーを拾うことにしたのだが、正確な場所がわからず、タクシーを降りてから非常に迷う。ガイドブックも旅行人ノートしかなくて、しかもこのマップがまったく不完全で、地球の歩き方と比べると著しく情報量が乏しいのである。「メコンの国」だから仕方ないじゃないかとも思うが、これはあまりにお粗末ではないか。とブツブツ言いながら、ようやく発見したものの、ビザ申請は午前中だけ。申請用紙をもらってきた。
帰りに懸案の変圧器を探すことにした。
出発前から持っていたものは、コンパクトなのだが上限が30wで、パソコンの電圧に対しては容量が小さいのである。電圧(ワット数)の計算というのはアンペア数とボルト数をかけることで算出されるというのを、私は阪口に教えてもらうまで知らなかったのだが(正確には習ったのに忘れていたはずなのだが)、そうすると、
16V×2.7A=43.2w
となり、これはもう明らかに、私の安かった旅行用の変圧器の限界を超えているのである。
そして今回は持参したパソコンに我々の趣味を反映した音楽を多数保存してきているので、チェンマイ、チェンライ、ルアンパバンとパソコンを使用して音楽を聴く機会が多く、わが変圧器氏はいつしか完全にオーバーヒートを起こしてしまっていたのであった。
ある日ルアンパバンで私がふと変圧器氏に目を留めたとき、彼のプラスチック製の薄緑色の外皮が大きく変形し、一部が茶色く焦げているのを発見したのである。
「な、なんだこれは!」
私はそう叫んで、変圧器氏をつまみ上げた。
熱い。ものすごく熱い。思わずその場に放り捨てようかと思ったほど熱かった。
そこに至って、私はことの重大性に気がついたのであった。
考えてみれば出発前に電圧の問題はちょっとだけ頭をよぎったのである。変圧器の説明書には(もちろんとっくに捨ててあるのだが同種の変圧器を東急ハンズで探して調べてみた)適正な用途として「充電器など」と、なんだか曖昧に書いてあったのである。この「など」にはパソコンは含まれるのか? 私のパソコンはミリオン出版編集部のI氏から譲り受けたソニーバイオの超小型ノートパソコンで(たぶん世界一小さいモデル)、小さいから電力も少ないに違いないという、わけのわからない理屈で、この「など」の中にこのパソコンを含めてしまったのであった。
パソコンのアダプターは、もちろん海外仕様でもあるので、240vに対応はしているのだが、途上国の電力事情は極めて悪く電圧が安定しない。しかも電力が低下するだけなら致命的な問題には至らないわけだが、時折、瞬間的に240Vを大きく越える凄まじい電圧がかかることがあるのだという。やはりルアンパバンで嫁がコンセントにプラグを差し込んだところ(もちろん変圧器なしで)、バチッと火花が散り、その瞬間モニタがパッと異常に明るく輝いたという。
怖い。
これはぜったい直でプラグを差し込むわけにはいかない。もしもこのパソコンが火を吹きでもしたならば、私が今まで撮り貯めた写真データおよびこの日記原稿と音楽データがすべて吹っ飛んでしまうことになる。もちろんバックアップはとってはあるが。というわけで容量の大きな変圧器の入手は私の死活問題だったのである。
一番置いてある可能性が高いと思われる伊勢丹に向かう。タコ足延長コードのあたりに変圧器が並んでいるた。しかしすごくでかい。しかもものすごく重い。もしかしたらパソコン本体よりも重いかもしれない。パソコンより重い変圧器を持ち歩くというのは、お金を持ち歩くために金庫を持ち運ぶようなものではないか。これは避けたい。
いくつかの仕様を控えて今度は東急へ。こちらはさらに品揃えが悪く全然ダメ。GダイのT氏に相談するとロビンソンデパートで見かけたとのこと。仕方なく今日は買うのをあきらめて明日ロビンソンに行ってみることにする。
夕食はカオサン裏手のプラーという魚専門店へ。
阪口夫妻は明日からサメット島の高級リゾートへ出発するとのこと。我々も宿を移ることにする。嫁がかねてからテレビ付きの部屋で一日中テレビを見たいというので、明日はその条件が揃う多少高い宿を物色することにした。
ここのレストランはカオサンが近いにもかかわらずファラン(欧米人)はまったく見かけず、客はタイ人ばかりで、これはこの界隈では珍しいのではないかと思う。やはり欧米人は魚専門店にはあまり魅力を感じないのだろうか。
それにしてもタイ料理の洗練さを見ると、料理は文化なのだなあとつくづく思う。ふとモン族の食事風景を思い出した。彼らの食事はあっという間に終わった。ものの五分である。米と野菜の煮込みを胃袋にかき込んで終わり。パプアニューギニアの高地人もそうだった。朝茹でておいたサツマイモを三つか四つ食べて終了。食事に対してなんの感興もないし期待もしていない。食事とは腹がいっぱいになること。それが彼らの食事に対する認識であろう。大昔の人類の食事とはそういうものだったのだと思う。それが次第に貧富の差ができて、大金持ちの娯楽のひとつとして料理が発達していった。現在「世界三大料理」と言われる料理が歴史上長期にわたって安定した政権が出現した国と重なるのも、そういう理由によるのだという。
太平洋の島々では歴史的にイモを主食としてきた。イモは穀物と比べて日持ちが悪くて貯蔵には不向きな作物なので、蓄財という概念が育ちにくく、従って貧富の差が生まれず、だからパプアニューギニアを含めて、統一した王国のようなものが出現しなかったのだという。料理にしても「ムームー」と呼ばれる石蒸し料理が有名なだけ
で、他にはひたすらサツマイモである。結局、生活にゆとりのあるヒマを持て余した大金持ちが出現しない限り文化の発展というものはないわけで、それはルネッサンスを見ても明らかなのである。
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